サダチルシア~sadachilucia’s blog

サダチルシア=サダチル(さだまさし+ミスチル)+パコデルシア

校歌ゼロ番

これほど、順当に、ことが運ぶ日も珍しい。
 
何もかも忘れて、この何日か、この日の事だけを考えていたのかもしれない。
そして、それは、俺だけじゃなかった。
なんと一年かけてのプランニングから、実現へと、幹事会は動いていたという。
 
不忍池のほとりを、歩いて、会場へ向かった。
幾度も、この道を、学校の帰りに、
茶店にしけ込むのに、来たものだった。
 
事前情報では、俺の愚連隊は、ほとんど行方不明で、
参加者いないかも、と聞いていた。
 
会場へ、まばらに、意外と、普段着の同世代たちが、入っていく。
俺は、ぎりぎりに到着。
「何組ですか?」
「え、何組だったかな
といきなり、受付で、自分が、もう当時のクラスすら忘れてしまっていた。
ぼんやり、見渡すと、
クラスごとの受付が立っていて、そこへ行く仕組みだった。
 
そして、2組のところにいる受付の女性が、俺を見ていた。
そこへ行くと、名乗る間もなく、
「すぐわかったよ」と、にっこり笑顔で、迎えてくれた。
彼女は、バレーボール部で、人気のあった女の子。
 
2階へあがり、大広間には、もうすでに、テーブルを埋め尽くすほど、
同期たちがそろっていた。
 
さらにそこで、クラスごとのテーブルになっていて、
なかなか、2組のテーブルが見つからず、どうにかたどり着いた。
 
「サダチルじゃねえか」
と背の高い、ジョン・レノン似の男が、声をかけてくれた。
奴は、当時、丸メガネをかけていて、顔の輪郭といい、眼もとといい、ジョン・レノンにそっくりで、
レノンと呼ばれていた。
 
これで、知ってる人、一人見つけたんで、安心した。
すると、その隣の白髪でメガネかけた男もすぐさま、
「よっ~」と言ってくれた。
全滅と思われた、越境組が、続々きていると知り、事前情報の状況と変わったようで、
Facebook等で、どうにか、突き止めて、だいぶ集まったそうだ。
 
愚連隊のボスも来ていた。それと、六本木のマンションを別宅に持っていた、
医者のせがれも、来ていた。
当時は、週末、そこへ泊りにいって、酒買い込んで、
朝まで、六本木のディスコいったり、部屋で飲んで、過ごしたもんだ。
でも、今は、そのマンションは売り払ったという。
 
芥川賞作家磯崎憲一郎も来ていた。
奴も、医者のせがれとともに、わりと家が近かったが、ほとんど付き合いはなかった。
 
女の子たちに、何回か写真をせがまれ、撮ってあげた。
「あのころとかわらないね、いつもふてくされて、腕組みして、窓の外眺めたりして、でも少し、進歩した感じする」と、
バレー部の女の子に、話かけられた。
 
担任の先生も俺のことはよく覚えていてくれたようだ。
 
3時間の宴会も終わりに近づき、
校歌斉唱。
しかし
「校歌歌うけど、ゼロ番からやるよ」
と、幹事の発令があった。
 
どうやら、体育会の連中は、このゼロ番を、先輩から伝授され、
部活単位、学園祭の打ち上げでは、恒例だったようだ。
 
会場を後に、ぞろぞろ、歩きながら、
俺は、愚連隊だけで、二次会へ行くことにした。
 
なかなか、皆のいるところだと、濃い話もできないから、
久々に、当時、あてもなくぶらぶらしてた、連中と、
30年ぶりに、上野の町を歩いた。
 
中学の同窓会は、何か、すごく、ジンと来るんだけど、
高校の同期会は、わりと、サバサバしている。
当時もそもそも、ドライという言葉が、使われていた時期だったからだろうか。
 
ナガフジビルで、他の同期生と枝分かれして、
俺ら愚連隊は、8Fのかに道楽の座敷で、
語り合うことにした。
 
女っ気ないのも、あの頃のままだな
と、野郎だけの宴会に入った。
 
卒業後2年で、クラス会はあったけど、
二次会で、体育会の連中に占領されて、
俺ら、入る隙間なかったからな
と、過去の記憶もあったんで、
野郎だけの集まりにしたのは正解だったのかもしれない。
 
こうして、30年たてば、この人生も決して、
失敗ではなかった足取りだったのかも。
物故者も10名を数え、
不明者も多数。
そんな中、まだ、こうして、居場所が分かって、
こういう場所へ、恥じることなく、
出て行ける自分が存在しているということが、
たしかな事実なんだと、気が付いた。
 
そして、30年振りに、
地下鉄に乗って、このメンバーで、
帰ってきた。
 
なにもかもが、30年ぶりだったね。