まだ、若かった頃、営業で、とある、商売を営んでいる、老舗の家の、
裏へ回って、セールスを試みた。
若かったからこそ、出来た、ずうずうしい、否、破れかぶれのスタイルだったのかも。
裏門さえ立派で、普通の家の表門としても立派ぐらいな家だった。
老婆の方が、引き戸を開けて、応対してくれた。
少し、話し込んで、和んできたので、
敷居をまたごうとした。途端!
「他人の家の敷居をまたぐとは失礼なり」
と、急に、怒りを爆発させた。
自分はただ、話に興味を示したので、資料をおみせしようと思い、
木で出来た立派な門をくぐり、
遠くから大きな声で話すのもなんだからと、一歩、足を上げた瞬間の態度を、
その老婆は逃さずに、声を高らげたのだった。
そう。たかが、話が少し、合い始めたぐらいで、
由緒ある商売で、繁栄してきた家の裏門の敷居を跨ぐ、権利など、
与えられたわけではなかったのだ。
そこには、心の門がある。
今でこそ、無縁社会だのというけれど、
昔から、こうして、そうやすやすと、
見ず知らずの者同士が、
家の敷居を跨いだり、物、金の貸し借り、なんぞは、
やるべきではない、シキタリのあるのが、人間関係というものではなかろうか。
仲間、友達、チームメイト、コラボ、
と、人々のまとまりを表現するものの、
多くは、この、
老婆のような心境なのではなかろうか?
「人の心に土足で踏み込む」
たかが、セールスマンが、調子いいこと言って、
話にのってきたから、ちょっと、もう少し、懐へなんて、
思ったのが、大間違い。
気づかないうちに、
人の心に上がりこんで、
余計なことをして、失敗している、
それすら、気が付かないで、
顧みることもしない、
まるで、そんな宗教でもあって、
悪い教祖に洗脳されているんじゃないかって、さえ、思えてくることがある。
自分の当たり前、ほんの一言が、
どれだけ人の気に障ることなのか、
きっと、その手のことをする者は、
気づかないまま、これからも、
地球のいたるところで、失態をさらし、
無神経に生きていくことだろう。
そして、まともと思われている人たちは、
ただ、黙ってみているしかない。
「人の心に土足で踏み込むナヨ」