サダチルシア~sadachilucia’s blog

サダチルシア=サダチル(さだまさし+ミスチル)+パコデルシア

春は眠い~アルジャノンに花束をドラマ化されたのか


冬に舞い戻りの一週間だった。

それより、眠い毎日が続く。
ほんと、睡眠てのは、大事なんだと、
50年生きて、実感するばかりだ。

昨夜、金曜日、
久々に、ドラマみた。

昔は、
金妻シリーズ
とか、
「ずっとあなたが好きだった」
冬彦さん
とか、
見たもんだが、
すっかり、無縁の時間帯になっていたんだな。

テレビ離れしていた時期が、こんなにも長かったんだと、
実感した。

そして、ようやく見たTBSの金ドラ
「アルジャノンに花束を」

まさに、氷室京介
Boowy解散後、ソロになっての、
デビューアルバムがこのタイトルだった。

天才とバカは紙一重とかいうけれど、
つまりは、
このドラマ、そういうことかもしれない。

見てくれのいい主人公ではあるが、
知恵が足りなくて、
お払い箱的な職業で、どうにか
暮らしていくのだが、
ある日、
とある研究所のアルジャノンと名付けられた、
実験ネズミと、出くわす。

このネズミもまた、実験で、
いい結果を出したがために、
普通のネズミではなくなってしまうのだ。

エリートめざし、
大学だ、上場企業だ、
歩んできた者たちが、実は、
人間として、何か不足している。

ましてや天才と呼ばれたものは、
社会からはみ出ている。

皆と同じような行動ができない、
そういう面では、
知力障害者と、天才は、
何ら差はない、ということ。

つまり、俗習の
普通
みたいな水準が、
こういう現象を生み出している。

優秀なのに、友達がいない
ハンディキャップで生まれ、特別扱い、
その基準は誰が線引きしたのかということ。

誰しも、欠点ってアルジャノン

普通の人は、
自分より出来のいい人を見ると、
その人を、
天才、秀才と位置づけてしまう、
自分より出来の低い人には、
劣等生、知恵遅れ
のような分類をしがちである。

では、その普通の人の基準はなんなの?
それって、
特に秀でた能力もない、
世の中に貢献してるかどうか微妙な人。
それこそ、社会のゴミなんだと、俺は思う。

ダメなならダメで、
そのダメとは、
それを修正するための手がかりなんだ。
それが、実験ネズミのように、
世の中の多くの研究室で、
役にたっている。

そのネズミにも、優秀なのが、稀にいたりする。

このドラマの結末がどうなるかはわからないが、
一つ言えるのは、
普通とかって思っている人々も、
どこか、自己防衛の集団を作った、
ダメな人たちの行動形態の特徴であるということ。

人はさほど、どう生まれてこうようと、
差は大きくないと、
俺は思う。

すべては、個人のコンプレックスなんだ。

あの人に自分は及ばないとか、
なんか、自分が、形とか、性格とか、学力とか、短所を感じ過ぎ、
卑下しているだけで、
実は、
そんなの、
考え込む必要はない、

ハンディって、誰もが背負っていて、
それは、生きていくうえで、差のつけるものではなく、補うもの と知れば、
誰もが幸福感を共有できると思う

体が弱く生まれてきた、
頭悪いし~とかって、学力テストで、悩んだり、
スポーツ苦手~とかコンプレックス感じたり、
音痴だなとか、音楽の時間思ったこと、
その価値判断なんて、誰にできるなんて法則すらないから、
思い悩むことはないんだよね。

優劣、格差、
つけたがる人こそが、招いた、
不均衡なんだと。

自分は学力は低いが、ハートはあるという思い込み、
自分はスポーツはできるが、勉強だめという思い込み、
何もかも自分だけで判断した、自己診断。

雨が降れば、
誰もが傘をさしている。

人と同じことなんて、
そんな風に、たやすくできることだと、
俺は思えてならない。