YouTubeが広まり、動画の活用は当たり前のネット社会。写真だけでもアップしなければとか、ブログ書く際に、つい考えてしまうせいか、昔に比べたら、投稿数は、激減した自分に気が付く。
昔は、動画も写真もない、たわいもない日記めいたことを、毎夜、書いていた。「無縁社会」という言葉がクローズアップされた頃だった。せめて、ブログで、つながりたいという人たちが多数いて、自分もまた、そのうちの一人だったのかもしれない。しかし、言葉だけのブログというのは、非現実的なことも書いている場合もある。その点、動画や写真は、偽造だのフェイクだのを除けば、リアルな、現実そのものを表現していることになるだろう。ネット社会の詐欺行為やオーバーな非現実をあたかも現実の出来事のように表現したりすることが受け入れ難くなったから、動画、写真を掲載してのブログが信頼性を得るための施策でもあると言えよう。
日経平均株価は、ついに、4万円の大台をクリアした。実態のともなわない、株価先行の危険な、空洞的状況なのだろうか?
今年の秋には、物価高は止まるという専門家もいるが、実質賃金は、マイナス傾向だし、労働人口は不足しているというし、経済と無関係の、自然災害による恐怖とその後の復興への取り組みも、人が必要だし、資金もいる。5人に1人が、75歳という超高齢化社会が2025年には、やってくる。
生まれてくる子供たちは、苦労を余儀なくされるだけだろう。
そんな事をぼんやり考えたりで、今日は、家でゴロゴロしていた。大好きなアイスコーヒーも飲みたい気がしなくて、朝、1杯飲んだだけだった。20代の若い頃から、週末は、金曜日の夜から、アイスコーヒーをガブ飲みするのだが。
ある意味、ストレスが無いというか、そういうことなのかも。コーヒーで気分をリフレッシュする人って、結構、いると思うし。
そして、こうして、家で、何もしなくても、平和を実感し、何かやらなくちゃとか、空しいだとか、そんな思いに見舞われることもなく、ダラダラしていた日曜日は、久々な気がする。膝のリハビリのため、ウォーキングをやらなきゃとか、ギターの練習しないと腕が落ちるとか、つい、週末になると考えてしまう。
とでもいうことなのだろうか?
孔子の唱える儒教と異なり、社会的道義から離れ、ありのままの自然な開放の中の人の幸せ、在り方を説いた、否、説くという行為は、無為自然ではないのだから、この思想を広めるには、どのような手段で、広まっていったのだろうかと、たわいもないことを、サダチルシアは、考えてしまうのでござる。
パリ五輪の女子マラソン最後の一枠で、今朝、ウィメンズマラソンが行われたが、あと3分及ばず、優勝したものの、パリへは行けなかった場面を見て、一所懸命、人が走る姿は単純な行為なのに、たった3分の差で、オリンピック出場できる選手、できない選手の線引きがされてしまうんだな。
第2次世界大戦の最中、ヒトラーが、命じた、パリの攻撃を、命じられた司令官は、無視をしたときに、放った言葉だそうだ。
芸術の都 パリが今あるのも、こういう出来事があったからだ。独裁者のいいなりにならずに、選択した自分の意志で、攻撃をしなかった。というより、これもまた、その司令官の無為自然な生きざまだったのかもしれない。
「パリ五輪は燃えているか」
今年の夏は、パリは、オリンピック・パラリンピックで、多くのアスリートとともに、観衆たちは、燃えているだろう。
by サダチルシア