サダチルシア~sadachilucia’s blog

サダチルシア=サダチル(さだまさし+ミスチル)+パコデルシア

お茶の間の歴史~さよなら、いいとも

友達の輪
という、ちょっと、気恥しそうに、
進行役のタモリですら、番組スタート当初は、戸惑っていた、テレフォンショッキングのお決まりのポーズ。
やがて、そのポーズは無くなった。
 
新宿アルタという場所の、昼の時間を縫って、
忙しい、OLだのが、その瞬間にさえ、見にくる、
そんな慌ただしさは、規模が大きくなり、
やがて、
森田一義アワーへと、全国の、
月~金イベントみたいなものへと成熟していった。
 
この番組に出ないと、プロではないというぐらいの、
格と息の長さを、象徴する、
テレビのエンターティナーの人気番組になり変わった。
 
タモリ、自身、元々ボーリング場の支配人しながら、
夜の大人むけバラエティ、うわさのチャンネルで、
イグアナの形態模写、4カ国語麻雀などの芸で、ちょいと出ただけのアマチュアみたいな人だったのに。
 
音楽では、ペットを吹き、田辺エージェンシーの代表的番組として、
その才能を生かし、、土曜日の夜、「今夜は最高」では、
女優とミュージシャンからなるしっとりとしたいい番組を作った。
 
音楽と言語を生かし、
何かの出来事へ重ね合わせる、巧みな長寿ミニコーナーが、
金曜日の深夜のサラリーマンには、
ちょっと吹き出しそうな、笑いが、心地よく思える。
 
今、世の中は、変わるのだろう。
お茶の間なんてのが、
どうも、くつろぎ空間ではないのかもしれない。
 
悠長に、お昼に、アルタで、お茶濁しなんて、している場合じゃない危機すらあるのかもしれない。
 
戦後の高度経済成長下で、
企業も音楽もバラエティも、大きく成長した。
 
しかし、どことなく、スポーツは、野球、サッカー以外は、
人気もなく、オリンピックでも、
しなびてゆく。
 
お茶の間で、笑っている場合なのか?ジャパン赤信号だぜ
冷え込む、お笑いの世界も、そのせいなんじゃないか?
そう、笑って過ごせる時代は、終わった。
 
茶の間で、菓子食って、暇してる専業主婦、定年後の老人たち、
少しでも、世の中に何か、貢献すべきときではなかろうか?
 
テレフォンショッキングで、嘘かほんとかもわからんような、
ぐだぐだ話、している暇あるなら、
芸を磨いて、
興行収入上げる役者になって、
被災地の人々や、世界の貧困者に幸福な気持ちを届ける、
ボランティアでもなんでもやれよ!
 
改めて、俺は、
平和という言葉。
その深さを知る。
 
ただ、笑うだけじゃない、んだと。
 
それは、メディアからだけの、お茶らけなんかで、
解決できるものではない。
 
今一度、俺は、
平和ということに、
こだわり、そのために、
人間の醜さの排除をしたいと思います。
1. 貧富
2. 格差
3. 暴力暴言
いろんな人が、このような事に、苦しみ続けているだけの歴史にすぎないのが、
人類の営みのようにさえ思えてくる。
 
これらは、すべて、余裕が生み出した、
邪気だと思うべきなんだよ。
 
切実に、生きている者には、
無縁のものだと言える。
 
1.
金があるなら、福祉に役立て、
金が無いなら、労働しろ、
2.
偉くなったら、社会へ貢献し、人々を守り、
ダメになったら、なったで、地べた這う仕事に従事し、上の独り善がりに、物言う役を勤めろ、
3.
あり余る腕力は、力仕事に費やし、身体を傷つけ、血を流すパフォーマンス如きで、金儲けするな、
たまったフラストレーションは、言葉で、罪もない者に言わず、己の心の師とあがめろ。
 
茶の間で暇つぶす時間なんて、もはや、
誰にもないんだよ。