お気に入りのバッグパックの修理が上がってきた。
を現代木版画家によるデザインで、模したバッグ。
ちょうど一年前ぐらいに発売になったのだが、通勤で雨の日は、カッパをつめこんだりで、持ち手の片側がほぼ、ちぎれかかってしまった。
浅草の革職人さんの手によって、見事、復活。北斎作品を継承し、それを絶やさない木版画家さんの存在も貴重だが、それを修理する役割もまた、なくてはならない存在意義と言えよう。
この日は、冬だというのに、9月中旬ぐらいの暖かい週末の土曜日だった。
街中、あちこち、行列の飲食店が目についた。テレビで、最近、取材されていたお店の前も偶然、通ったが、今まで、見たことない行列が出来ていた。コロナも増加傾向にあるものの、弱毒化も進み、ワクチンも国産も認可されたりで、国民の安堵感はもとより、インバウンドの戻りもまた、後押ししているようだ。
俺も、そんなポカポカ陽気に誘われて、午後から、自宅裏、隅田川テラスに出て、久々に、サイレントギターを持って、歩いてみた。
膝のリハビリも順調に回復しているせいか、スイスイと、歩いて、あっという間に、午前中、バッグパックを修理した革屋さんのある、浅草付近まで、付いてしまった。いつもの、東武スカイツリーラインの鉄橋手前の堤防にあるTally's Coffeeの下あたりの川のほとりの休憩用の椅子のあるところで、サイレントギターを弾き始めた。
なんだかんだ、ちょうど一年前、真冬へ突入以来だ。ギターもって外へ出たのは。
このギターは、音は外に出ないので、人が通る場所でも、迷惑にならないのがメリット。でも意外と、通りがかる人たちは、珍しそうに、俺の演奏する姿を見ながら、隅田川を散策したり、ジョギングしたり、水上バス乗り場へ向かう。
今日は、ご高齢のおばあちゃんに声をかけられた。
「頑張ってね、素敵だから」と。
オネスティ(ビリー・ジョエル)
遥かなる影(カーペンターズ)
をギターインストで、弾いていたら、カップルが、隣の椅子にかけて、なんとなく、聴いてくれていたようだ。
音は出ないとはいえ、弦を爪弾く音色で、何の曲かぐらいはわかるだろう。
ライブハウスで弾き語りやっていた頃は、いつも、失敗したらどうしようとか、考えてしまい、自分の演奏力にばかり、気がいってしまい、イマイチ、演奏の楽しさを満喫できずにいたものだ。でも今は、ただ、自分の余暇の過ごし方の一部であり、自分の弾ける曲さえ弾いて、楽しければいい、失敗してもいい、そんな気持ちで演奏しているせいか、意外と、うまく弾けている。
そんな演奏を立ち止まったような通り過ぎるような感じで、聞き流してくれるだけでも、嬉しいものだと思った。目を合わせて、うなずいてくれる人もいる。
なんだかんだで、2時間近くが過ぎていた。
そして、ギターをしまい、すぐ堤防の上にある、Tully’sで、アイスコーヒーを。
外の立ち飲みトレーの場所で、ぼんやり、風景を見ながら頂いた。
写真左のコースターは、無料で、浅草花川戸付近の助六夢通りとのコラボで、Tully'sのお店においてあったもの。こういう何でもないサービスが、また、今日みたいな長閑(のどか)な一日をさらに、演出効果の後押しして、心地よい週末にしてくれるんだよな~。
いつもは、スマホで、音楽聴きながら、ウォーキングしているが、こんな日は、いらない。隅田川の小さく波打つ水の音、鉄橋を通る電車のガタコトする音、水上バスのポコポコいう音、ウミネコの鳴く声、インバウンドや観光や地元の人々の声、これらが、小さなオーケストラのように、何らかの旋律を奏でるかのように、コラボして、耳から入ってくる音色は、決して、悪くない、即興演奏のように思えてくる。
こんな日は、すれ違う人は、皆、幸せそうだ。
一方で、
シャーデンフロイデ(ドイツ語:schadenfreude)、「他人の不幸は蜜の味」という意味だそうだが、平和な日常は、つまらないから、自分以外の人が、不幸な目に遭うのを嘲る人も少なくはないだろう。
しかし、今日のような穏やかな日は、そんな悪びた気持ちの人も、まるで、別人のように清々しい心に書き換えられてしまうほど、心地よい昼下がりを楽しめるのではなかろうか。
家で、ギター練習も、時々、煮詰まることがある。こうして、ぶらり、外へ出て、サイレントギターを弾いて、気分転換するのも上達への一つの策だ。
去年は、ぎこちなく思えたが、自然にギターを奏でる感覚を会得したかのようだ。
ギターという自分から分離した道具を奏でるのではない、自分自身がギターの一部、自分も爪弾く弦のような楽器のような存在であるという、新しい感覚を得たような気がした。自分を含めて、一つの楽器なのだという感覚。
ギターの向くまま、自分の向くまま、同じ方向を向いて演奏するのが大事なのだろう。
なんて、大谷翔平のドジャース入団会見で、「球団の向く方向と、自分の向く方向が、球団の優勝という同じであることが重要」という発言にも少し、似ているような気がする。
ギターに求める演奏結果は、使い手である自分にも求められる演奏結果なのだが、ただひたすら「うまく弾け、失敗するな」という心の中に、鬼コーチを作りだすことではないのだ。
自分こそが、ギターなのだ、弾くのではない、弾いてもらっているような、楽器の一部になりきる感覚を得た。
長閑で、和やかな憩いの時間との一体感が、部屋の中での、ひたすら繰り返し譜面と睨めっこの状態から解放されて、上達への「しるべ」となったようだ。
by サダチルシア