サダチルシア~sadachilucia’s blog

サダチルシア=サダチル(さだまさし+ミスチル)+パコデルシア

スッキリ過ごせた1週間~普通で不完全、これでいいのだ~

長いような短いような、

忙しいような、そうでもないような、

晴れたり、雨降ったり、

たった1週間で、アップダウンあったけど、

スッキリした気分。

十数年、きっと、こんな思いはしたことがなかっただろう。

思えばかれこれ、20年ぐらい前から、会社はブラック化し始めた。

残業無制限、土日祝臨時出社を余儀なくされ、家庭は崩壊し、その後、不治の病におかされ、病魔との闘いが始まった。

元気な時に、スポーツに音楽に、いろんなことやっておいて良かったと、つくづく思う。今は、走ることもできない。

家で、のんびりテレビを見るそんな週末が、コロナ以来続いているが、それが、平和で、とびきり幸福度がなくても、ただ自分のペースで生きていられれば、それでいいのだと思うのです。

そんなテレビだが、あまり期待していなかったが、朝ドラ「ブギウギ」が、今日で終わったようだ。まだ見ていないが、開始当初は、どうかな?という印象だったが、じわじわと人気を獲得していった、女優 趣里さんの名演技。

数年前、TBSドラマ「私の家政婦なぎささん」で、初めて、ヒロイン役の多部未華子の妹役で、見たときは、水谷豊、伊藤蘭の娘にしては???という感じで、見ていた。

体も小さいし、お顔も派手ではない、そのあたりは、キャンディーズで華々しいセンターをしょった母 伊藤蘭さんとの比較。子供の頃から見ていた、バンパイヤという狼に変身する役を演じた水谷豊、その後、俺が中学のときは、熱中先生で、大ブレイク。今では、相棒ですっかり、国民的俳優といっていいだろう、息の長い男性の役者さんを父に持つ娘としては、大きなプレッシャーではなかろうかと。

しかし、そんなビッグなタレントの両親とは別の、どこかパッとしない役柄を演じたら、この人しかいない、ぐらいの存在感を示したのではなかろうか?物語は笠置シヅ子さんの半生。俺自身、笠置シヅ子さんは、ほとんど知らないが、ブギの女王といっても、それすら、わからないので、なんとも、言えないが、風貌も趣里さんはよく似ているような気がする。

ど派手な存在感ではないが、ブギなる音楽とダンスで、ステージでは、思い切り華やぎ、終戦から立ち直る人々へ、ほんのひととき灯りを灯してくれる身近なアイドルというイメージだ。そういった意味では、キャンディーズ時代の蘭さんとイメージは被ってくる。手が届かない、天使のような存在ではなく、バラエティでコントもやる、歌でもファンを熱狂させる、手が届きそうな距離感でありながら、大きな足跡を残しつつも、

普通の女の子にもどりたい

という名言を発し、キャンディーズを解散。

まさに、若い時、普通の女の子が、めいいっぱい弾けた姿が、キャンディーズだったのだろう。その娘が、遅咲きかもしれないが、今、弾けているように見える。コロナで長年、篭った暮らしをしてきた日本国民のみならず、世界中が、感染しないようにと、心配しながら、肩身の狭い思いで、暮らしてきたのではなかろうか?その弱毒化が進み、ワクチンも普及し、ようやく、普通に近い状態になった今、タイミング的には、終戦後の立て直しのような気運に近い中で、この「ブギウギ」というドラマの発信は、タイミングはバッチリだろう。

ドラマの中で知る限り、笠置シヅ子さんというのは、人気とは裏腹に、私生活では謙虚な印象だ。

女王様気取りの人ではなかったような気がする。それを演じた趣里さんも、キャンディーズ、相棒というビッグなタレントの娘という気負いもなく、誠実にこの半年間、朝ドラで、少しずつお茶の間を惹きつけてきた印象だ。主人公特有の決め台詞もないし、不必要に泣かせる脚色もない。同局での出演者による番宣的な企画も思ったより少なかったのではなかろうか。女優 趣里自身が、自立という主体性が、このドラマを通じて表現されているようだ。伊藤蘭でも水谷豊、でもないのだ。つまり、なんちゃら二世、みたいな存在ではなくなったような気がする。

そして、大事なのは次だ!

朝ドラ女優さんは、大概、朝ドラ以上の出来栄えを、その後、なかなか残せない印象がある。朝ドラで終わってしまう人が多いのではなかろうか?

そういった意味では、趣里さんの今後の役柄に注目したい。半端なラブコメディーレベルでは、満足、納得いかなくなることだろう。チャラいファンではなく、心底、期待するファンを獲得したのだから。

さあ、ようやく平和な週末が訪れた。

近所の自販機は、今週から、大好きなアイスコーヒーが、並んだ。

これが、夏になると、近隣では、売り切れだらけになるんだ!

深夜残業の月曜日はどうなるかと思ったが、順当に、その後は、仕事を進めることができた。ここ10数年は、大概、こういう面倒な仕事に当たると、泥沼化して、抜け道のないまま毎日が過ぎていくのだが、今回は、そんなことはなく、後味スッキリと終えた。

この感覚が普通であるべきだ。途中、苦しい場面はあっても、永遠に続くことはない。お天気にしても、雨、風の強い日、真冬のような寒い日はあったが、午後から晴れたり、暖かい春の陽気だったりと、今週は、いろんな事が、普通だった。

コンビニで、食べたいおにぎりが、売ってた日もあれば、売っていなくてあきらめた日もあった。

体調の悪い日が、半日だけあったけど、あとは、普通だった。

雨の朝、2回、カッパ着て、自転車通勤したけど、あとは、晴れだった。

何もかもが、自分の思い通りではないのだけれど、そのちょっぴり歯がゆさ味わいつつも、無事、週末にたどりついた感が、実感できた一週間がちょうどいいのかもしれない。

普通が大事。しかし、その普通が、少なすぎるのです。異常事態に、特殊な能力を発揮しないと解決できない場面が、常だったこの十数年。私生活は失われ、病気になって当然のことだろう。

不屈の精神は持ち合わせていても、不死身の体力は持ち合わせていないのだから。

病気になりたての頃、早く回復したくて必死だった俺を見て、看護師さんは「サダチルシアさんはストイックですね」と言い、ドクターは「無理するな!」と言った。

株価はバブル崩壊前の最高値を更新し、景況感はいいように思えなくもない。

しかし、株価だって最高値を更新し続ける日々が続かなくてもいい。

元々、アップダウンあるものなのだから、大暴落さえなければいいのです。

つまり、なにもかも不完全なのです。

普通の日々とは、あわただしい日もあれば、長閑な日もある。幸福度の高い日もあれば、ついてないなという日もある。

世の中のすべてが、不完全なのです。

政治の政策も、会社の経営も、支持率がそこそこある政党の政治家も、大企業の経営者も、敏腕な陰のリーダーも、皆、不完全なのです。

そこに従事する者たち、国民ひとりひとり、そして、俺自身が、不完全なのです。

普通であること、それは不完全であることでもあるが、享受しやすくて、誰もが出来そうで、最終的には居心地のいいオアシスとなることだろう。

帰り道、専門店の美味しい中トロマグロの握り寿司か焼き鳥が食べたいなとか、ドトールコーヒーで、アイスコーヒーをテイクアウトしようかなとか、一瞬、思ったけれど、コンビニの揚げ鳥、自販機の缶コーヒーで、今日の翔平は、ヒット出たかなと、テレビ見て、普通で、不完全な週末、これでいいのだ!

                                                                                         by サダチルシア