サダチルシア~sadachilucia’s blog

サダチルシア=サダチル(さだまさし+ミスチル)+パコデルシア

ただのクズでいいぜ~やせがまんか

鍋奉行政権。民主党は、岡田か。細野はまだ若いから、
またチャンスはあるし、
女性問題で、スキャンダルもあったからな。
 
WOWOWで、氷室京介25th ツアー・ファイナルの
舞台裏が放送された。
 
7年前から、左の耳が聞こえなくなってきて、
さらに、今回のツアーで、
リハで、転んで、
胸の骨を1本骨折、2本ヒビ、そして、
公演中に、ヒビの入った2本も折れたという。
 
氷室と言えば、前にも、このブログで書いたが、
東京ドームのこけら落としで、
小室等と待ちあがえて、
当日券で入ると、
「KING OF ROCH SHOW」
という氷室のツアーだったという、、笑い話が、氷室を知った、きっかけ。
 
その後、ヒットは出しつつも、ロンドンだかへ旅立ったようだ。
そして、10年ぐらい前、
ANSWERという曲で、
グレイとのコラボで、
まあ、氷室が、
よみがえった気がしていたが、
その後、耳に異変が起きたんだな。
 
似たようなところでは、宇崎竜童が、
難聴だという。
 
矢沢永吉もなんか、
インタビューとか聴いていると、
耳悪そうな、そんなふうに思える、トーンだ。
 
今回放送された、
昨年7月の氷室の横浜スタジアム2日間のライブでは、
頻繁に、
右の耳に、
左の手を持ってくる仕草が写っていた。
 
2日目の最終日、雷雨で、一時間ライブ中断も、
観客は、待機していて、
氷室がステージで、すべてを白状する。
「俺の耳はだめだし、
リハで、骨を骨折した。
でも、こんな俺のパフォーマンス以上に、
今日のこの演出(雷雨の中見ている根性のある客のこと
のほうが最高さ」
と。
 
氷室の裏側は、
本当は、ロックより、
メローなタイプと、語る。
 
矢沢永吉の還暦ライブにも出演した氷室を思い出す。
 
俺もフォークシンガー、小室等と間違えて、
偶然、見に行った、
氷室だが、
まんざら、ジャンルがはずれていたわけでもなさそうだ。
 
大人になったのかな。
謙虚な氷室の姿を見た。
子供が生まれたり、
妻が身ごもったとき、
その時々に、
発表した楽曲を紹介する、
父親 氷室も素敵だった。
 
番組のインタビューのシーンでの、
語る氷室の声は、
やはり、どこか、耳に異常のあるような
おかしなイントネーションだった。
 
俺も昨年の秋、耳管狭窄症で、
自分の声が、エコーして聞こえた時期があり、
耳鼻科で、治療した。
 
音楽しているものの避けられない職業病の一つなのか。
って、まあ、俺のは、もともと、アレルギー鼻炎からの併発だが。
 
氷室、今度は、
生ギター一本とかで、
小室等のように、
再帰してもらってもいいように思う。
 
メローな、フォークソング
3人の子供へのメッセージとか、
そんな氷室も見てみたいもんだ。
 
完璧ではなく生まれてきた姿を、
これほどまでに、やせがまんの苦しみを振り払い、
さらけ出す、氷室。
 
これも、ロックスター。
 
ファンへのパフォーマンスなのか。
 
53歳にもなった今、もはや、
ロックのキングでもない、
人間として、まともでもない、
ダメな氷室の、
Boowy解散後、
ソロのファーストアルバム、
Flowers for Algeron」の
歌詞に出てくる、
ただのクズでいいぜ
まさに、アルジャノンは、
氷室自身だったのかもしれない
と、暴露しているかのようだ。
 
偽りの自分になっていませんか?
元々、そういう人ですか?
 
ふと、自問自答する今日この頃。
 
氷室以外に好きなアーチスト、
伊勢正三の最初にいたフォークグループ
南こうせつ率いる、かぐや姫も、
僕は何をやってもダメな男です
なんて曲を歌っているところにも、
相通ずるもがある。
 
世界が平和になれない、
苦しい思いをして生きている人たちの、
理由の一つに、
そんな個人の、
生まれつきの
コンプレックスを、
俺は、注目せざるを得ない。
 
昨日、今日と、
寒い冬の日は、
大好きなテニスもしないで、
家にこもりがちだ。
 
先週、餃子屋の大将にごちそうしてもらった、
シンプルな、肉料理を、
自分なりに、調理してみた。
 
そうか、材料の質は、料理屋とは比べものにならないが、
近所のスーパーで全部そろうし、
冬の寒い日に、適した料理だったんだな。
 
ここんとこ、浅草のEKIMISEばかりで、買い物してたが、
美味しいものなんて、
安い具材でも十分出来ることを、
20年来通った店の
あの料理人は教えてくれたんだ。
 
高くなくてもいい、
かっこよくなくてもいい、
ただのクズでいい、
何をやってもダメな男でいい、
ありきたりの食材でいい、
というところに、彼らの、共通点がある。
 
そんなところが、
やせがまん、プライドから
解き放たれて、
生まれながらの自分の素顔で、
商業主義を超えたさらなる世界で、
受け入れてくれる者、排除されてしまうことも、ありつつ、
生きていくことなのだろう。