眠くて、何もしたくない。
東京マラソンも終わり、また、
浅草界隈は静けさの中。
最近のTVドラマ、面白いと思ったのは、
日曜劇場「家族のカタチ」
アラフォーの独身扮する、
香取信吾が、ビジネスでキャリアを積み、
男の城、マンション一人暮らし、
人とかかわるのは面倒だ的な、
背負いこむころから、
避けた生きざま。
有るのは、自分の趣味と居場所。
そこへ、人情味あふれる親、西田敏行が、
転がり込んでくる。
俺も、若干違うんだけど、
この40で一人、
ビジネス以外これといったものは、何もない、
わからなくもない。
俺は、それを20代で感じていた。
周りは世帯をもつが、
俺自身は、興味が無かった。
多分、今時の若者は、
そういうのを、40ぐらいで感じているのかもしれない。
高齢化進む日本の社会、
長生きするわけだから、
俺が20代に味わったことは、
今の若者は、もっと遅くに経験し、感じるのだろう。
「家族のカタチ」のドラマでの香取信吾は、
人に迷惑をかけないで、一人で生きていくという設定だ。
まさに、人が交われば、何か、問題は生じるものだ。
虫けらのように、
自分のエサを自力で育み、生きて、
決まった寿命をまっとうするのとは違うのが、
人間の儚さ。
人によって、生きる時間、生きている間にやること、
が、異なってしまう。
最近は、オリジナ脚本ドラマと、
コミックからのドラマ化とあるそうだ。
この「家族のカタチ」
いい線いってたが、
香取の父親役、西田が、
リアルタイムで、腰痛かなんかで、
立てないらしく、日本アカデミーの司会も、
座ったままだったという。
それに引きずられるかのごとく、
ちょっと、倦怠期のように、
展開に精彩を欠いている。
その要因は明確。
この香取扮する、
他人に迷惑かけず、一人で生きていくのなら、
それをとことん描けばいいはずが、
はつぴいえんどへ、結びつけたいのか、
結局、この独身男の部屋が、
人の集まる場にしてしまっている。
その昔、俺が、19歳のとき、
同じTBS系で、
「夏に恋する女たち」
という金曜ドラマがあった。
田村正和主演で、
六本木のマンションの7階の住人の人間模様を舞台に、
独身、バツイチ、単身赴任、未婚、
そんな少しだけ、普通者とピントの合わなかった、
中高年の繰り広げるドラマ。
バツイチで、フリーカメラマン扮する田村が、
この7階の人たちを、まとめ役になっていく羽目になるのだが、
結末は、誰ひとり、はつぴいえんど、
にはならず、終わる。
生真面目に働く、マンションの管理人の男も、
「7階の連中のようにはなるな!」
を口癖のように、自分の築いた家族へ諭すも、
やがて、奥さんがそんな窮屈な雰囲気から、
パートへと出てしまう。
時代は違うが、
似たようなものだと思った。
人と人、一度は、くっつくが、
やがて、窮屈、退屈、卑屈な思いの比重のほうが、
求めた幸せの大きさよりも大きくなり、
崩壊というか、自由を求めて、
別の生き様を求め、実現しようとする。
そして、その先にも、
結局、いいことなんかないことを知る。
この「家族のカタチ」で、
香取の台詞で、
「迷惑かけたくないから、関係を持たない」
というのが印象的だ。
まさに、人と交わって、痛い目に遭い、遭わせた経験こそがあって、
この言葉は生まれる。
世間が狭く、人脈もない者には、ありえない、言葉。
一方で、父親役の西田が、
「人ってのは、迷惑かけるとか、そういうのを助け合うってものじゃないのか」
と、古き良き時代の台詞をいう。
ご近所で、食事時、醤油なくなりゃ、隣へ、
「少しちょうだい」
なんて、言えた、
家族ぐるみのようなご近所なんてのが、
俺みたいな昭和の世代には、あった。
「人に迷惑をかけないために、一人でいる」
が正論かどうかはわからないが、
現代を象徴してはいる。
一つ言えるのは、
「生きるための覚悟」
ではなかろうか?
老後、60~80才までに、4000万かかるとか、
親の介護の費用、
認知症になった際の不安、
全て、試算はできているし、
準備をしている人も、
そこそこいることだろう。
でもそれは、
「死への備え」
に過ぎない。
自分自身が少しでも、
生きている時間を長くするには、
節約し、いろんなことを我慢して、
夢、ロマンは一切捨て去り、
リアリズムだけで、生きていく、姿の選択なのだ。
収入に応じた生きざまは、
変えられないが、
やはり、どうも、
一番かけているのは、
「生きていく覚悟」
だと、
ここ数か月、
俺は、いろんなアングルから、
この先のことを考えてきたが、
「死」を心配するばかりで、
「生」を重要視した、「腹のくくり」
が、日本の侍らしいところだと思った。